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抒情する

 昨日はテレビでばかな大臣が辞任、というテロップがでた。その後、ニュース番組で問題のスピーチのところが放映された。関東で同様のことが起きたらたいへん、というところで、ぽろっと言ってしまったわけである。意識の流れ、にのっとってこの男は抒情してしまったのである。これはふつう言わないよね、と家人がつぶやいたが、抒情ではこういう、普通言わないようなことも流れのなかであえて言うことがある。倫理的な判断は別として、言語運用の構造はこのばかな大臣と現代詩人は似ているかもしれない。現代詩人は、この言語運用の中で普段考えていることばかりではなく、普段考えていないようなことまで言えたらなあ、と思っている。これは自由連想法を活用する超現実主義やダダ、未来派なども同じであろう。

 同じことが自分たちの住む関東で起きたらどんな災害になるだろう、というのは誰でも戦慄をもって思う。この「思う」は、言語としてはあいまいな揺れの中にある。大臣は戦慄に眼を取られて、「思う」ことのあいまいさを手近な言葉に連結させてしまった。多くの人前で話すときは、たいてい緊張する。間違えないように話すためには、原稿の棒読みがいちばんである。しかし昨今のパフォーマンスを重視する状況の中では、アドリブが必要となる。棒読みをせずに人前で話した経験のある人なら、ミューズが来臨していつのまにか無意識に何かをしゃべっていた、というのはよく分かるであろう。

 そこら辺にいる東京在住の人を捕まえて、いきなり観衆の前で同じ話をせよ、と言ったら、たぶん同様の発言をしてしまうであろう。しかし、政治や行政を仕事にしている人はそこは訓練している(はずである)。この大臣は東大法学部卒らしいので頭はいいのだろうが、語りについては実は素人同然のばかだったのであった。思うことと、そこら辺の適当な言葉が一致してしまう、というこの能力は、しかし、理想的な抒情、という見方はある。詩の世界では、心と言葉が一致していると魂がある、とみなされたりする。

 もっともそれでは稚拙になるので、語りに圧をかけよ、ということになる。圧の源泉は、思想だったり哲学だったりする。そういうものでしか圧をかけられない、と現代詩は思っている。あるいは、思うことが圧そのものになればいいのだ、という考えもでてくる。これは一段階発達した進化形だが、ここでも思想と語りの幸福なる結婚が夢見られている点で、あのばかな大臣の抒情と相似なのであろう。

 ばかだっていい、詩人だもの。というわけで、当方は相変わらず詩の制作を思っている。腹の立つニュースだったが、言語の相において現代詩の世界がそれとどれほど離れているか、と考えると、実はあまり変わらないかも、と思ってしまうのであった。