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長いにっき

飴風呂の天才。いや、アメブロの転載です。

こっちじゃ読む人ほとんどいないと思うけど、外に出さないとダメな感じがするので、一応公開でだしてみます。

これから書くことは私の思考の整理だから、常識的な皆様のマジレスやクソバイスの類は勘弁してほしい。さらに長い。そのうえで何かしら感じること、あるいは極端な思考癖から楽になれる見方があれば、ぜひいいねに加えコメントを寄せてほしいと思う。

自己肯定感がある程度進んでくると、過去にずっとダメ出しをしていた己の個性は、本当はダメなんではなくて、それでいいのだという認識になるから、例えば他人から何かを言われたとしても己を責める方向にはもっていかなくなる。「あぁ、この人とは認識が合わないんだな」という解釈になる。

このところ、やりたいこととやりたくないことのバランスについてずっと考えている。

私は子供のころから、やりたいことをやって生きることが難しいという観念を持ってきて、やりたくないことをしないとこの世で生きていけないらしい、という思い込みを持っている。これはなかなか今でも取れない。この観念を持っていると、現実の世界では「やりたくないことをしないと生きられない世界」を創り出すらしい。おっかないよねぇ。

そうやって私は変な現実を作って、やりたくないこと(苦手な教科・苦手な運動・苦手な遊び・苦手な競争・向いてない人付き合い・意味が分からないが社会的に正しいとされるもの・向いてない仕事・向いてない結婚・向いてるけど嫌いな家事etc.)を必死に必死に頑張って(その間サイトを本能寺っぽく炎上させたり、鬱で10年間寝込んだりを経ていることも付記しておく)あるとき「もうやってらんねえ!!」と限界に来て、すべてをご破算にして振出しに戻った。これは2年前のことだ。

それからの2年間はどうしていたかというと、特に何もしなかった。ただ本を読んだり、絵を描いたり、ラジオを聴いたり、ぬくぬくと魂の忘れ物を拾っていただけだった。ひきこもっていたくせに多少は新しい人と出会うことがあり(不思議な数々の再会も含む)、その中で表現者としての人生を思い出してアロマスプレーをつくったりスタンプを作ったりして、欲しいものは少しは買える。必要なものは何故かいろいろなところから手に入る。勤めていた時よりも結婚していた時よりも子供の頃よりも今が一番幸せだとはっきり言える。

そうやって生きているとそのうち欲しいものがなくなってくる。内側が満たされているから、外からあれこれととってつけようとしなくても、あるもので十分ってなる。CDや服はさっぱりと買わなくなり、現場もめっきり行ってない。ただこの目の前のインターネットにつながったPCとワコムタブレット、格安スマホがあれば十分やりたいことができる。

とはいえそのように遊牧していれば収支はマイナスである。この2年間「悩みは無い」と豪語してきた私も、そろそろ流石にインターネット料金をどうやって払い続けるか、という恐れを膨らませるようになった。インターネットが止まったらどうなってしまうんだろう!おそらくは私の絵や文章を披露する場所がなくなるので、私の魂レベルでの死を意味する。いつしか私の姿がインターネットから消えたならそっと手を合わせてほしい。

「道端で野菜を売る」と私が表現しているアロマスプレーやキャラクター関係は商売の形を成していない。コンサルを入れて売上を上げるだのメルマガをやるだのということもさっぱりと興味がない。自分では一番のギフトと思っている音楽知識はどこにも使われずツイッターで踊るだけである。古い自分の頭に浮かぶのは「やっぱりやりたくないことをしないとだめなのかなぁ」という強烈な観念である。非常識かつ未診断アスペルガー疑惑の私が推測するに、世間的一般的常識的な模範解答も、おそらくそれだ。

そこで、多少なりとも、その模範的な方向を考えてみる。一般社会に私にもできると思われる仕事は、なくはないと思う。だがおそらくそれをやると過去のリテイクを繰り返す。過去のリテイクとは、会社のルールに自分を押し込むのに必死で頑張る。ある程度評価はされる。けど物凄く無理をしているから常に苦しくて、そこにエネルギーはすべて持っていかれる。やりたいことなんか忘れてしまう。絵を描くことも、アロマスプレーやカレンダーを作ることも忘れる。何が好きだったかなんて思い出せない。心は常に苦しくて、こんなことがしたいんじゃない、やめたいと言い続けるから、本当に現実に現れる(職場がなくなったり人員削減が起きたりする、稼いだはずのお金も虚しさを埋めるためのことに消える)。このパターンでずっと来てたことをもう今は気づいているから、これではやる意味がない。

こういうと怒る人がいるかもしれないけど(関係ないから書くけど)本当は働く意味がまるで分からないと思っている。

なんで働くのかって多分、生きるためだと思うんだ。「お前は実家でぬくぬくしているからそんなことが言えるんだ」って見方があると思うけど、実家にいなくても働いていても兼業主婦をしていたときもいつでもそう思っていた。あとから気づいたけど。

でも私はそれほど何十年もの間自分を殺してきて、「そこまでして、生きる意味ってあんのかなぁ」と思う。

やりたくないことをしてまで生きたいとはどうしても思えない。

去年大切な友人が40歳で旅立っていった時、なおさらそう思ったんだ。

働く=やりたくないことをやる、っていうのが思い込みだとはわかるし、この思考が極端なことも、自分が世間知らずなこともわかってる。いちいち他者にいまさら言われなくても、すでにこれまでの人生で言われてる。

じゃああんた、それを今更言ったところで、世間知らずって治ると思うかね。根性論で会社勤めをしたところで、私が幸せになると思うかね。一番大事なことは、ここなんだ。社会的に、世間から見て、常識的に正しいかじゃない。私が私の心が、どう感じるかだけなんだ。常識的なクソバイスは勘弁と冒頭で書いたのはそういう意味だ。インターネットでクソバイスを入れてきたやつが私に適した仕事やメンターを紹介するとかまでやってくれるなら別だがそんなやつは過去一人もいなかった。みんな言いたいことを言って、おれのわたしの思い通りじゃないからおまえはだめだと言って去っていった。そういう人々の言うことをうのみにして、世間に寄せてきても、何も残らんかったし、一つも幸せではなかった。

自分一人の考えではここまでなのよ。人生に何かしら相談する相手がいればいいのだけど、特性が特殊ゆえに、普段の友達に相談してもピンと来ないものがあるし。かといって専門家なんて「ぼくのわたしのコンサルをカウンセリングをヒーリングを受ければウン十万円で!!」なんて足元見るばかりで話すら聞いてもらえなくて。ずっとそうだったんだけどいろんなことを一人で考えてきた。子供のころから。だから物質的な手段よりも癒すべきはそっちなんじゃないかなって、今これ書いてて気が付いた。

そもそもこの記事を書いたのは、このことをいわゆる社会的にできる人(あったことない)に相談したら、とても常識的な回答が来てしまって「いや、それ、あなたにきかなくても、アタマで考えりゃわかるでしょ。外で働きながら絵を描けばいいって当たり前!どっちかしかできないスペックの人間もいるの!後者ってやつなの!!」ってなってしまって、とても悲しかったからなのだけど、そこで過去の自分だったら自分をボロクソに叩いていたところなんだ。でも自愛を進めたから、「非常識人には非常識人の棲める水があって、それは常識人のやり方とは違うだけなんだな」と思えたんだ。

その人の言うことは多分正しくて、そのとおりにやればうまくいくのかもしれない。でも私は「また必死で頑張ります」とキーを打ちながら口から無意識に「絶対やらない」と呟いてしまっていたんだ。

常々物事はできる人がやればいいと思っていて、苦手をつぶそうとするよりも、得意を持ち寄ったほうがいろんなことがうまくいくんだと思う。自分は職人で、人とかかわるのが好きじゃなくて、細かいことをもくもくと何時間もできるので、逆に「人とかかわるのが好きで単純作業が嫌いだから代わりにやってほしい」って人と組んだら絶対うまく回ると思うから、そういう人がいたら是非紹介してください。